栖雲寺の創建と歴史
 臨済宗建長寺派の寺院で山号を天目山といいます。南北朝時代の貞和4年(1348年)業海本浄を開山として創建されました。開基は甲斐国主の武田信満公で、往時は中部地方における幻住派の拠点として、また戦国の大雄武田家の菩提寺として大いに繁栄しました。勝頼公の敗北後は、織田家の兵火で殿堂を焼失しましたが、徳川家康が寺領を寄付した為に旧観を取り戻しました。武田家の滅亡によって外護者を失いはしましたが、鎌倉建長寺の「参暇日記」によると、江戸時代には建長寺末山の四大柱寺の一つとして特別の待遇を受けていたようで、衰えたりといえども巨刹の面目を存していた事がわかります。また国指定重要文化財の普応国師坐像をはじめ、多くの文化財を有する寺院でもあります。県指定史跡の石庭は当時多くの修行僧が坐禅を組んだ禅庭として伝わり、秋には見事な紅葉が見られます。 本堂
 
中峰明本(普応国師)
 中国の元代の禅僧です。15歳で出家を決意しますが、父親の許可がもらえず一度は断念。24歳の時に、杭州西天目山の高峰原妙に出会うと、再び出家を志します。ここでも父親に反対されますが、これをなんとか諭し、25歳で意を決して高峰について出家、参禅。後に同師が遷化されるまでの9年間高峰の下で修行されました。師の死後34歳で天目山を去った中峰は山林江湖を移り行き、行く先々で庵を作ってはそこを幻住庵と呼び、定居なく「幻人」として生涯修行されました。皇帝や大寺からの再三の招きもかたくなに拒み続け、請われるごとに逃げるように場所を変えての修行。西天目山に戻っても住寺要請は止まず、時には舟上に居を構え、ただひたすらに静かな場所での修行を求めた禅僧の中の禅僧です。元亨3年(1323年)八月十四日、61歳で示寂、11年後の建武元年(1334年)に普応国師と諡されました。
西天目山の幻住庵には名声を聞いた日本の僧侶も多くの者が参禅しました。
栖雲寺開山業海本浄もそのうちの一人です。
中峰明本
 
 業海本浄は文保2年(1318年)元に渡って杭州の天目山に登り、中峰明本(普応国師)に参じた6人僧の一人で、印可を授かって嘉暦元年(1326年)に帰国されました。その後、山水を愛して諸方を行脚され、この山が杭州の天目山によく似た景勝の地であったことから、天目山護国禅寺(現在の栖雲寺)を創建されました。業海は出世の意を懐かず、また当時一世を風靡していた夢窓疎石の一派にも染まらず、俗世間から遠く離れたこの栖雲寺の境内で、樹下や石上で坐禅を組み中峰の教えを伝えました。
文和元年(1352年)七月二十七日示寂。
業海本浄
 
 摩利支天は仏教の守護神で、語源はサンスクリット語のMarici(マーリーチー) 陽炎を意味します。陽炎は実体がなく目にも見えないので、捕らわれず、傷つかず、財を取られることがありません。摩利支天は猪に乗って素早く移動し、いろいろな災難から私達の身を隠しご守護くださいます。また害されることがないことから、死と隣り合わせで戦う武士の間にも敵から身を隠し勝利へ導く戦場での守護神として信仰されました。信玄の家臣山本勘助や、前田利家、楠木正成なども小像を身につけて出陣したと言われております。禅宗寺院では、本尊と別に鎮守(ちんじゅ)をお祀り致します。当山では釈迦如来を本尊、摩利支天を鎮守としてお祀りし、創建当時から栖雲寺をお守りいただいております。 イメージ
 
 庫裏東側の急斜面に広がる県指定名勝の庭園。禅寺の庭園と聞いて想像する様な鎌倉や京都の庭とは全く異なり、多くの巨岩からなる豪快な自然の造形です。創建当時、修行僧達は石の上や樹の下で坐禅を組み、業海が庭園上段にある「坐禅石」の上に坐って弟子たちの坐禅の様子を検単(チェックすること)していました。坐禅をする為の庭すなわち「禅庭」として業海本浄が作庭されたものです。庭園の中には地蔵菩薩と文殊菩薩の磨崖仏があります。本県では唯一の磨崖仏で、いずれも県指定文化財です。庭園には順路があり、坐禅石、三尊石、摩利支天堂、磨崖仏などを廻れます。秋には庭園のみならず、周囲の山々まで見渡す限りの紅葉がみられます。(11月上旬〜中旬) イメージ
 
 蕎麦は初め、実を粉にして食べるそばがき、そば餅として食べられており、今の様な細く切って茹でた蕎麦(蕎麦切り)はありませんでした。
蕎麦切り発祥の地は、ここ天目山栖雲寺です。
尾張藩士で国学者の天野信景が江戸の元禄年間に出した雑録「塩尻」の宝永年間の条で「蕎麦切りは甲州よりはじまる。初め天目山参詣多かりし時、所民参詣の諸人に食を売るに米麦の少なかりし故、そばをねりて旅籠とせしに、其後うどんを学びて今のそば切りとはなりし、と信濃人のかたりし」と記述されています。
栖雲寺のある木賊地区は現在でもそうですが米は採れません。当時も米麦は少なかった為に、うどんに学んで蕎麦切りを作って参拝の方々に食べさせていたのでしょう。
境内には蕎麦切り発祥の地の碑があります。
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