拝観の御案内

禅庭は毎日拝観可能です 宝物館の拝観は事前にお問い合わせください

拝観時間
  石庭・墓地   8時~17時
庫裏・宝物館  9時~15時 
※宝物館は事前予約をお願いします




拝観料
石庭   300円
拝観料箱にお入れください


宝物館 500円(石庭拝観も含む)
庫裏の受付でお納めください

境内の御案内

巨石に坐って自己を知り、蕎麦切りの歴史に触れ、武田家滅亡の感慨に浸るお寺

禅 庭

県指定史跡の坐禅古道場

 全国各地にある立派な建造物をもつ禅寺の多くは、朝廷や武家など権力者によって作られたもの。お釈迦様の坐禅、だるま大師が印度から伝えた本当の禅は、禅堂の水平な畳の上で坐るものではありません。自然の中で自然と一体になって大宇宙の真理を体得するもの。

 広大な石庭は古代の禅道場 開山業海本浄禅師が作庭され、弟子と共に石上に坐していたのです。

 禅庭内には岩窟、摩崖仏、天目井、摩利支天堂などがあり歩道が整備されています。

 隅々までの散策には30分ほどかかります。

 

庫 裏

築420年の県指定文化財

 織田信長によって全焼させられた伽藍は、徳川家康の寺領寄進を受けて1592年に再建されました。

 平成14年の保存修理では一度全て解体され、現在の形に組み上げられ復元いたしました。

 毎年11月の宝物風入れ展では、庫裏内にある囲炉裏や石庭会館で『住職手作り精進菓子』をお出ししたカフェを開催したり、土間では蕎麦打ちなども行われます。

 

武田信満公墓所

武田家第13代当主(信玄公の6代前)

 武田信満は室町時代に勃発したクーデター「上杉禅秀の乱」で禅秀に味方して敗者となり、天目山の地で自害をしました。
 信満公の自害によって一度断たれた武田家は、室町幕府の命によって再興します。その後の急成長は周知の事実、戦国最強と恐れられた信玄公の時代へ向けて力をつけていきます。天目山はそんな武田家にとっての聖地であり、リボーンの場所でもあるのです。

 

摩利支天堂

武田家の必勝祈願

 石庭の中腹にあるお堂に摩利支天様がおまつりされています。

蕎麦祷観音

栖雲寺の双馬頭観音

 その昔、日川の深い谷は険しく道も悪く、人里離れた天目山への参禅や参拝は危険を伴い旅の途中で亡くなる者もいました。馬頭観音は旅する人々の安全を守る仏様です。また山間部の農作業では農耕馬などの動物が重要な役を担っていました。馬頭観音はそんな動物の無病を守る仏様でもあります。そして眷属の白馬は観音様を速やかに目的地へ運ぶことから、心願を速やかに叶えてくれる仏様と信仰されております。
 栖雲寺の二体の馬頭観音石仏は共に江戸時代中期の尊像で(左:安永八年、右:宝暦八年)並べて安置されるようになり、双馬頭観音として人々がこの双体を一度にお参りし旅の安全や心願成就をお祷りしてきました。
蕎麦切発祥の地にある双馬頭観音は、いつの頃からか蕎麦祷観音(そばとうかんのん)と親しまれるようになり、蕎麦をお供えしてお祷りするようになったと寺伝にあります。

≪ご利益≫ 

旅行安全・交通安全・無病息災・心願成就・ペット守護・午年の守り本尊

 

石庭会館

無料の休憩所

 お寺の境内にありますが、甲州市が管理している無料の休憩所です。トイレもございます。
 年中無休ですが、台風や雪などの天候によって開錠できない日もございます。おおよそ9時~16時の時間帯でご利用いただけます。

 ゴミはお持ち帰りいただき、またきれいにご使用いただきますようお願いいたします。

 
 

栖雲寺の文化財

拝観をご希望される方は、事前にお問い合わせください。

中峰明本坐像

国指定重要文化財

元国杭州 天目山幻住庵

 中国の元代の禅僧。15歳で出家を決意するが父親の許可がもらえず一度は断念。24歳の時、杭州西天目山の高峰原妙に出会うと、再び出家を志す。ここでも父親に反対されるがこれをなんとか諭し、25歳で意を決して高峰について出家、参禅。後に同師が遷化されるまでの9年間高峰の下で修行。師の死後34歳で天目山を去った中峰は山林江湖を移り行き、行く先々で庵を作ってはそこを幻住庵と呼び、定居なく「幻人」として生涯修行をした。皇帝や大寺からの再三の招きもかたくなに拒み続け、請われるごとに逃げるように場所を変えての修行。西天目山に戻っても住寺要請は止まず、時には舟上に居を構え、ただひたすらに静かな場所での修行を求めた禅僧の中の禅僧である。元亨3年(1323年)8月14日、61歳で示寂、11年後の建武元年(1334年)に普応国師と諡された。
 西天目山の幻住庵には名声を聞いた日本の僧侶も多くの者が参禅したが、栖雲寺開山業海本浄もそのうちの一人。

 

業海本浄坐像

山梨県指定文化財

日本国甲州 天目山栖雲寺

 業海は文保2年(1318年)元国に渡って杭州の天目山に登り、中峰明本に参じた。師の中峰が遷化すると三回忌の法要を終えて西天目を下山したものと思われる。嘉暦元年(1326年)に帰国。その後、山水を愛して諸方を行脚するが、22年間の足跡が分かる資料は残っていない。甲州の天目山にたどり着くと、この山と石庭が杭州の天目山を鏡に映したようなよく似た景勝の地であったことから、貞和4年(1348年)に天目山栖雲寺を創建。業海は出世の意を懐かず、また当時一世を風靡していた夢窓疎石の一派にも染まらず、俗世間から遠く離れたこの栖雲寺の境内から離れずに、師である中峰明本の教えを守り、樹下や石上で坐禅をし一生を終えた。
文和元年(1352年)7月27日示寂。
 その後の栖雲寺は、東日本の幻住派(中峰明本の教えを継承する一派)の拠点として大いに栄えた。

 

信玄公鉄製軍配

甲州市指定文化財

戦勝の御礼に奉納されたと伝わる

 重さ3.2kgの鉄製軍配。鋳造したものではなく、鍛冶屋が刀と同じ強度を持たせるために1点もので鍛造した軍配である。

 表面には星(北斗七星)が描かれているおり、中央には北極星になぞらえた水晶がはめ込まれている。裏面には雲のかかった日と月が描かれ、刀を受け止めたと思われるいくつもの傷が見られる。